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エンディングノートの奇跡 ~最後の贈り物~

物語で覚える終活「エンディングノートの奇跡」

プロローグ

雨の音が窓を叩く。 梅雨の終わりを告げるような、しとしとと降り続く雨。 佐藤美智子(68歳)は、ため息をつきながら窓の外を眺めていた。台所から漂う味噌汁の香りと、古びたラジオから流れるJ-POPが、この平凡な午後に小さな彩りを添えている。

「こんな日はやっぱり憂鬱ね……」 退職して5年。中学校で国語教師として38年間勤め上げた後の生活は、思ったより単調だった。夫の正男(70歳)と二人暮らし。元高校の体育教師だった彼は今日も雨にもかかわらず地域のゲートボールの指導に出かけている。

美智子はテレビのリモコンを手に取った。ワイドショーでは芸能人の相続トラブルを大々的に報じている。チャンネルを変えれば、今度は特集「円満相続の秘訣」。彼女はため息をついて電源を切った。

「死んだ後のことなんて、考えたくないわよ」

そう呟きながらも、ふと頭をよぎったのは一人娘の彩花(42歳)のこと。IT企業の管理職として東京で忙しく働く彩花は、月に一度の電話で声を聞くくらいが関の山だ。昨年のお盆に帰省した時も、仕事の電話に追われ、ゆっくり話す時間もなかった。

美智子は立ち上がり、リビングの棚から古いアルバムを取り出した。小学生だった彩花の運動会、家族で行った沖縄旅行、正男との銀婚式…。ページをめくるたびに、懐かしい記憶が蘇る。

「あの頃もっと話せばよかった」

「おばあちゃん、これ何?」 玄関から帰ってきた孫の光(12歳)が、郵便物を持って美智子に声をかけた。彩花は離婚後、光を連れて実家のある地方都市に戻ってきたが、仕事の都合で東京と地元を行き来する生活を送っていた。光は平日は祖父母と過ごし、週末や長期休暇は母親の彩花と東京で過ごす。

封筒には「シニアライフ充実フェア特別招待状」と美しい筆記体で書かれている。

「あら、こんなの頼んでないのに」 美智子は面倒くさそうに封筒を受け取った。宛名は確かに「佐藤美智子」様。差出人は「未来への扉」という聞いたことのない団体名。

「何か当たったの?」光の好奇心あふれる目が封筒を見つめている。

封筒を開けると、中に入っていたのは一冊の真っ白なハードカバーのノートと一通の手紙。ノートの表紙には「My Ending Note」と金色の文字が刻まれている。

手紙には不思議な言葉が記されていた。

『このエンディングノートが、あなたと家族の未来を変えるでしょう。人生の最後にどんな選択をするか、それはあなた次第です。』

美智子は首を傾げた。 「何だか怪しいわね」

光が覗き込んできた。 「エンディングノートって何?死ぬ時のノート?」 「まあ、そんなところね」美智子は苦笑した。「でも、おばあちゃんはまだまだ死なないからね」 「うん!100歳まで生きてよ!」光は無邪気に笑った。

美智子はノートを棚に置き、夕食の支度を始めようとした。しかし、何か引っかかるものがある。このノートが持つ不思議な力に、心のどこかで惹かれていることに気づいていなかった。

これから二つの物語が始まる。 エンディングノートを書かなかった世界と、書いた世界。

Side A:温かい言葉を残せなかった世界

第1章 遠い家族

「お母さん、お父さんの調子はどう?」 電話の向こうで彩花の声が聞こえる。久しぶりの連絡に美智子は嬉しさを隠せなかった。

「元気よ。あなたこそ忙しそうね」 「うん、会社が忙しくて。今度休みが取れたら帰るわ」

彩花との会話はいつも短い。言いたいことはたくさんあるのに、なぜか電話口では言葉が出てこない。娘の生活を詮索するのも悪いと思い、深く聞くこともない。

「光は元気?」 「ええ、今日も学校から帰ってすぐ野球の練習に行ったわ。あなたによく似て、負けず嫌いなのよ」 「そう…」彩花の声が少し遠くなる。「じゃあ、また連絡するね」

電話を切った後、美智子は棚に目をやった。あの白いノートが、まるで彼女を見つめているようだった。

「エンディングノートなんて…」

そう言い聞かせ、美智子は日常に戻っていった。

それから一年が過ぎた。

秋の長雨が続く日、美智子は自宅の台所で突然、激しい頭痛に襲われた。右半身に力が入らなくなり、床に崩れ落ちる。

「美智子!しっかりしろ!」 買い物から帰った夫の正男が救急車を呼んだ。

診断は脳梗塞。幸い一命は取り留めたものの、美智子は言葉を発することができなくなった。意識はあるが、自分の思いを伝えることができない。病室には正男と、急いで駆けつけた彩花、そして泣きじゃくる光の姿があった。

「お母さん、大丈夫?」 美智子はただうなずくことしかできない。言いたいことは山ほどあるのに。

彩花は医師から説明を受けた。

「今後、容態が急変した場合の対応について決めておく必要があります。特に延命治療については、ご本人の意思を尊重したいところですが…」

彩花は困惑した表情で父親を見る。 「どうしよう、お父さん。お母さんの希望、知ってる?」 正男は首を横に振った。 「話したことがないんだ……」

美智子は自分の意思を伝えようとするが、言葉にならない。 「ううっ…」唸り声だけが漏れる。

「お母さん、落ち着いて。大丈夫だから」 彩花は母の手を握りしめた。目には涙が浮かんでいる。

この時、美智子は後悔した。自分の希望を伝えておくべきだったと。あの白いノートに書いておけば…。

半年後、再び脳梗塞に襲われた美智子は、そのまま意識を取り戻すことなく息を引き取った。享年69歳。

彩花は実家に戻り、父と一緒に片付けを始めた。しかし、どこから手をつければいいのか分からない。

「お父さん、お母さんの通帳とか保険証券とか、どこにあるの?」

「…さあ、美智子が管理してたから」 二人は途方に暮れた。家中を探し回るが、重要な書類の保管場所が分からない。

「ああ、もうこんな時間だ」正男は時計を見て言った。「葬儀屋さんが来るはずだが…」 「どこに頼んだの?」 「いや、まだ…どこがいいか分からなくて」

彩花はため息をついた。 「お母さんの希望も聞けないし…」

リビングの棚を整理していると、未開封の白いノートが出てきた。 「これ…」彩花はノートを手に取った。「エンディングノート…?」 空白のページをめくりながら、彩花は途方に暮れた。

銀行口座の存在も把握できず、生命保険の契約内容も不明だった。 葬儀の準備も混乱を極めた。

「写真は?どの写真を遺影にすればいいの?」 正男は困ったように頭を掻いた。 「分からないよ。美智子に聞いてみないと……」 その言葉に、二人は言葉を失った。

光は祖母のスマホを持ってきた。 「おばあちゃんのパスワード、分かる?」 正男も彩花も首を振るしかなかった。 「中に写真があると思うんだけど」光は悲しそうに言った。「最近撮ったやつ」

葬儀の日、参列者が少なく寂しかった。美智子の友人たちに連絡が取れなかったのだ。彩花は母の携帯電話の連絡先にアクセスできず、どこに声をかければいいのか分からなかった。長年勤めた学校の同僚たちも、数人が新聞の訃報で知ってやってきただけだった。

そして葬儀が終わった後、真の悪夢が始まった。

第2章 見えない糸

「お兄さんは相続の件で連絡がつきませんので、私から直接来ました」 突然訪れた女性は、美智子の弟の妻だと名乗った。弟は遠方に住んでおり、疎遠になっていた。

「主人の分の遺産相続について話し合いたいのです」 彩花は困惑した。

「今までどこにいたの?お葬式にも来なかったじゃない」

「それはこちらの事情があって……とにかく、生前に義姉から遺産をもらう約束をしていたのです」女性は強気に言い放つ。

正男も彩花も黙り込んでしまった。美智子の遺産について、誰も彼女の意思を知らなかったのだ。

「でも、あなた達夫婦は美智子の法定相続人ではないのでは?」正男は遠慮がちに伝えた。
「でも美智子お姉さんと生前約束したのです」女性は引き下がらなかった。

正男は困惑を隠せなかった。

彩花は毎日、仕事の合間を縫って実家の整理と相続手続きに追われた。 「パソコンのパスワードが分からない!」 「銀行の解約手続きができない!」 「このサブスクの解約方法が分からない!」

次々と問題が発生する。母が管理していた家計や契約は全て謎に包まれていた。 さらに、正男は一人で暮らすことが困難になっていた。美智子がいなくなってから、家事がままならず、食事も不規則になった。

「お父さん、ちゃんと食べてる?」 「ああ、コンビニ弁当でなんとか…」

彩花は仕事と父親の世話の両立に苦しみ、心身ともに疲弊していった。仕事のミスも増え、上司からの評価も下がり始めた。

ある日、光が泣きながら帰ってきた。

「どうしたの?」彩花は心配そうに尋ねた。 「おばあちゃんが好きだったプリンを買ってきたのに、食べてくれる人がいない……」 光はスマホを取り出した。 「これ、見て」

それは美智子と光が一緒に写った最後の写真だった。二人でプリンを食べている姿。美智子の笑顔が、まるで何かを訴えかけているようだった。

しかし、美智子は何も残さなかった。約束も、思い出も、言葉も、願いも…。

第3章 崩れゆく日常

一年が経ち、正男の状態は更に悪化していた。彩花の実家を訪れるたび、家の中は荒れ、食べかけの食事が放置され、薬も乱雑に置かれていた。

「お父さん、大丈夫?」 「ああ、彩花か。ちょっと調子が悪くてね…」 正男はやつれた姿で娘を迎えた。相続トラブルによる疲弊、そして認知症の初期症状も見られるようになっていた。

「もう一人じゃ無理よ。私と一緒に住まない?」
「いや、この家を離れたくない。美智子との思い出がここにはあるんだ」

彩花は苦悩した。仕事を辞めて父の介護に専念すべきか。それとも父を説得して施設に入れるべきか。 母が生きていれば、こんな時どうすればいいか教えてくれただろうに。

相続問題もいまだに解決していなかった。正男の弟夫婦は執拗に権利を主張し、裁判沙汰になりそうな勢いだった。家の売却も検討せざるを得ない状況だが、それは父の最後の希望を奪うことになる。

彩花の職場では、介護休暇の取得が上司に冷ややかな目で見られた。 「また休むのか」上司の言葉には、明らかな不満が込められていた。

家に帰れば、母親不在の寂しさから反抗期に入った光が待っている。
「ママはいつも僕のこと放っておく!おばあちゃんみたいに僕のこと分かってくれない!」 光の叫びに、彩花は言葉を失った。

ある夜、彩花は母の形見の品を整理していた。タンスの奥から出てきたのは、母が教師時代につけていた日記だった。

『今日も生徒たちとたくさん話した。彼らの将来が楽しみ。私の役目は、彼らに言葉の大切さを教えること。言葉は人の心を動かす。言葉は未来を作る。』

彩花は涙が止まらなかった。

「お母さん…あなたの言葉が今、私たちには必要なのに」

美智子が何も残さなかったわけではない。たくさんの言葉や思いがあった。ただ、それを伝える「最後の言葉」がなかっただけ。大切なことを語り合う機会を、彼らは見逃してしまったのだ。

Side B:愛の言葉を紡いだ世界

第1章 繋がる思い

「このエンディングノートが、あなたとあなたの家族の未来を変えるでしょう」 美智子はその言葉に、何か運命的なものを感じた。 封筒から取り出した白いノートを開いてみると、様々な項目が整理されている。

「基本情報」「財産・資産」「医療・介護の希望」「葬儀の希望」「大切な人へのメッセージ」…

「ずいぶん、めんどくさいのね」 そう言いながらも、美智子は好奇心から少しずつ書き始めた。 自分の名前、生年月日、本籍地…。

そして徐々に、自分の人生を振り返る内容へと進んでいった。

「私の宝物は、家族との思い出…」

美智子は書きながら、ふと立ち上がり、アルバムを取りだした。家族旅行の写真、正男との若かりし日の2ショット、彩花の成長記録、最近の光との写真…。

それらを眺めながら、美智子は懐かしさと共に、言葉にできなかった感謝の気持ちが湧き上がってくるのを感じた。

「こんなに素敵な家族に恵まれて、私は幸せ者ね」

美智子は思いがけず、涙を流していた。 「こんなに幸せな人生だったのね」

毎日少しずつ、美智子はノートを埋めていった。 「これは意外と楽しいわ」

預金通帳の保管場所、保険証券の内容、大事な印鑑の置き場所…。そしてデジタル資産についても。

「スマホのパスワードは『hikaru1210』(光の誕生日)。パソコンのログインパスワードは『masaomi525』(正男の誕生日)。各種オンラインサービスのIDとパスワードリストは、書斎の青いファイルに保管。」

さらに進めていくと、より深い内容に突き当たった。
「もし私が意識不明になったら…」

美智子は考え込んだ。延命治療は望まないこと。できるだけ自然な形で最期を迎えたいこと。それを書き記した。

「葬儀は派手にせず、家族と親しい友人だけで送って欲しい。花は白いユリかカサブランカを。遺影は、去年の家族旅行で撮った笑顔の写真を使って欲しい。」

ノートを埋めていく過程で、美智子は自分の過去、現在、そして未来について深く考えるようになった。まるで時間を越えた対話をしているかのように。

「あら、こんなこと考えてたら、何だか気持ちがすっきりするわね」

ある日、美智子は思い切って彩花に電話をかけた。

「彩花、ちょっと相談があるの」 「どうしたの、お母さん?」 「私ね、エンディングノートってものを書いてるの。もしもの時のために、色々書いておこうと思って」

電話の向こうで彩花は沈黙した。

「お母さん、まだまだ元気でしょ?」彩花の声には戸惑いが混じっていた。
「もちろんよ。でもね、いつか必ず来るその日のために、準備しておくのも悪くないと思ったの」

美智子は続けた。 「それでね、あなたにも知っておいて欲しいことがあるの。週末、時間があったら帰ってこれない?」

その週末、彩花は東京から帰省した。3時間かけて母と「もしもの時」について話し合った。最初は気まずい雰囲気だったが、徐々に自然な会話になっていった。

「お母さん、正直言って驚いたわ。こんなに整理されてるなんて」
「私だって、意外と几帳面なのよ」美智子は照れくさそうに笑った。

それから、彩花は週に一度電話をくれるようになった。話題も自然と深まり、時には仕事の悩みや光の教育についても相談してくるようになった。

正男もまた、美智子の変化に気づいていた。 「最近、何かいいことでもあったのか?」 「ちょっとね」美智子は微笑んだ。「あなたにも見せたいものがあるの」

美智子は正男にもエンディングノートを見せた。二人で自分たちの人生を振り返り、残りの時間をどう過ごすかを語り合った。

「美智子、もう一度旅行に行こうか。二人で」
「ええ、素敵ね」

いつの間にか、美智子のノートは家族の絆を深める架け橋となっていった。

第2章 最後の贈り物

それから一年後、美智子は脳梗塞で倒れた。

「お母さん、大丈夫?私が来たわ、彩花よ」 急いで駆けつけた彩花の声に、美智子はうなずいた。意識はあるが、言葉を発することができなくなっていた。

彩花は慌てることなく、母の手を握りしめた。 「お母さん、あなたが書いてくれたノートのおかげで、私たち何をすればいいか分かるわ」

正男も落ち着いた様子で妻の傍らに座っていた。 「大丈夫だよ、美智子。僕たちがついている」

医師から延命治療について質問された時、彩花はしっかりと答えた。 「母はエンディングノートに『延命治療は望まない』と書いています」

美智子は安心した表情を浮かべた。自分の意思が伝わっていることが嬉しかった。

半年後、再び脳梗塞に襲われた美智子は、静かに息を引き取った。享年69歳。 その日は偶然にも、彩花と光、そして正男が揃って病室にいる時だった。最期の瞬間、美智子の顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。

彩花は父親と一緒に、美智子のエンディングノートを開いた。 そこには全てが記されていた。

「葬儀は家族葬で。浄土真宗で。この写真を遺影に使って欲しい」 「大切な友人の連絡先リスト」 「通帳や重要書類の保管場所」 「パソコンやスマホのパスワード」 「サブスクリプションサービスのリスト」

さらに家族一人一人へのメッセージも。

「正男さんへ—長い間、本当にありがとう。あなたと過ごした日々は私の宝物です。私がいなくなっても、毎日ちゃんとご飯を食べてね。料理のレシピは台所の引き出しに全部書いておいたわ。辛くなったら、彩花に頼っていいのよ。あなたは一人じゃないんだから。」

「彩花へ—いつも遠くから見守ってくれてありがとう。あなたの選んだ道を私は誇りに思っています。仕事も大切だけど、自分の時間も大切にしてね。光との時間、そして自分自身との時間を。お父さんのことは心配しないで。私たちで話し合って、もしものことがあったら、彼はあなたの近くで暮らすつもりでいるわ。」

「光へ—おばあちゃんはね、光と過ごした時間が本当に幸せだったよ。あなたがプリンを二つ買ってきて、一緒に食べた日々は宝物です。これからもその優しい心を大切にしてね。そして、お母さんを助けてあげてね。おばあちゃんの形見は、書斎の本棚にある『宮沢賢治全集』よ。あなたが小さい頃、よく読んであげた本。大きくなったら、また読んでみてね。」

それぞれのメッセージを読みながら、家族は涙を流した。それは悲しみだけの涙ではなく、感謝と愛情が混ざった温かい涙だった。

葬儀は美智子の希望通り、家族と親しい友人だけの小さなものだった。しかし、そこには温かい雰囲気が漂っていた。連絡先リストのおかげで、美智子の大切な友人たちが全員参列できた。

「美智子先生には本当にお世話になりました」学校の元同僚が語った。「生徒たちへの愛情と言葉の力を教えてくれた方です」

相続についても、エンディングノートに「法的には遺言書を作成しています」と書かれ、その保管場所も記されていた。公正証書遺言には美智子の希望が明確に示されており、相続トラブルは一切なかった。

弟夫婦も争うことなく、美智子の遺志を受け入れた。

第3章 続く絆

美智子の死から半年後、彩花は決断した。 「お父さん、東京近郊に家を借りたの。これからは一緒に住もう」 「いいのか?」 「お母さんもそれを望んでいたわ」

正男は自分の家を離れることに一抹の寂しさを感じたが、孫の光と一緒に暮らせる喜びの方が大きかった。

「じいじ、一緒に住めるの?」光は飛び跳ねて喜んだ。 「ああ、これからはたくさん野球の相手をしてやるぞ」

引っ越しの準備をしていた時、正男は美智子のパソコンを開いてみた。彼女がメモしておいたパスワードでログインすると、デスクトップに「家族へ」というフォルダがあった。

「彩花、これを見てごらん」

中にはデジタルアルバムがあった。美智子が整理した家族の思い出写真。幼い彩花の成長記録から、最近の光との日々まで、全ての大切な瞬間が整理されていた。

「お母さん…」彩花は感動して言葉を失った。

さらに驚いたのは、音声ファイルの存在だった。 「私の声が聞こえなくなっても」というタイトルの音声ファイル。美智子の声が部屋に響き渡った。

「家族のみんなへ。もし私の声が聞こえなくなっても、この言葉が届いていることを願っています。長い間、本当にありがとう。正男、あなたとの人生は幸せでした。彩花、あなたは私の誇りです。光、おばあちゃんの宝物よ。それぞれに伝えたいことは、エンディングノートに書いたけれど、声でも残しておきたくて…」

音声は15分ほど続いた。美智子の笑い声、時折詰まる言葉、そして最後の「愛しています」という言葉。家族は静かに耳を傾けた。

「お母さんは、ちゃんと準備してくれていたのね」彩花は涙をぬぐった。

ある日、光が美智子の机の引き出しから一冊の本を見つけた。 それは美智子が書き綴った「私の人生物語」だった。エンディングノートを書き始めたことがきっかけで、自分の人生を振り返り、まとめていたのだ。

「ママ!これ見て!おばあちゃんが書いた本だよ!」 彩花は感動しながらそれを読んだ。

『私は普通の教師でした。特別なことはしていません。でも、生徒たち一人一人と向き合い、言葉の大切さを伝えることだけは、真剣に取り組みました。言葉には、人の心を動かす力があります。言葉は、未来をつくるのです。』

それは単なる回顧録ではなく、美智子の人生観、価値観、そして家族への愛情が詰まった宝物だった。

「光、おばあちゃんはね、言葉の大切さを教えてくれたのよ」 「うん。だからボクも、大切な言葉を忘れないようにする」 光は学校のノートを取り出した。そこには彼なりの「大切なことノート」が始まっていた。

正男は東京近郊での新生活に徐々に馴染んでいった。彩花の家の近くの公園で、地域の子どもたちにスポーツを教えるボランティアを始め、新しい友人もできた。

「美智子、見ているか?」夜、正男は星空を見上げてつぶやいた。「俺たちは元気でやっているよ」

エンディングノートは、美智子の「最後の授業」となった。それは死の準備ではなく、愛する人たちが前を向いて歩いていくための道しるべだったのだ。

彩花は仕事と家庭の両立に奮闘しながらも、母から受け継いだエンディングノートの習慣を自分も始めていた。まだ若いと思われるかもしれないが、人生はいつ何が起こるか分からない。大切なことは、今伝えておくこと。

「ねえ、光」ある日、彩花は息子に声をかけた。「今度の週末、おばあちゃんが眠っているお墓に行こうか」 「うん!プリン持っていこう!」 「そうね。おばあちゃんの好きだったカスタードプリンね」

美智子のエンディングノートは、今も家族の宝物として大切に保管されている。それは単なるノートではなく、美智子の愛情と思いやりが込められた、最後の贈り物だった。

そして、それは新たな絆の始まりでもあった。エンディングではなく、愛の循環の続きなのだから。

相続・終活のポイント

1. エンディングノートと遺言書の違いを理解しよう

   – エンディングノートは法的拘束力はないが、自分の希望や思いを伝えるための大切なツール

   – 遺言書は法的拘束力があり、財産分与には必須

2. エンディングノートに書くべき重要項目

   – 自分の基本情報(氏名、生年月日、本籍地など)

   – 財産や資産情報(預貯金、不動産、生命保険など)

   – 遺言書について(有無、保管場所)

   – 重要な契約情報(年金証書、健康保険証など)

   – 医療や葬儀の希望(延命治療、葬儀形式など)

   – 各種ログイン情報(パソコン、スマホ、サブスクリプションなど)

3. エンディングノートに書かない方が良いもの

   – 自分以外の個人情報(トラブルの元になる)

   – 遺産相続に関する詳細(法的には遺言書で)

   – 創作の話(事実と混同される可能性がある)

4. 終活は家族とのコミュニケーションのきっかけに

   – 自分の思いを伝えることで家族との絆が深まる

   – 終活は「終わり」ではなく「始まり」でもある

5. 今からできる終活のステップ

   – エンディングノートを少しずつ書き始める

   – 大切な書類の保管場所を整理する

   – 家族に終活の意思を伝える

   – 法的効力のある遺言書の作成を検討する

CEO